事實
仁祖十六年戊寅十二月, 本曹啓目, 都民飢饉, 甚於外方, 市廛亦無米穀, 必有發賣之擧, 而別庫米, 限明年, 除其應用, 歲前一巡, 歲後三巡發賣, 則可爲救活之一助矣。上曰, 依爲之。
二十年壬午四月, 備局啓曰, 戶曹出米貿木, 貧殘下戶, 未參和賣, 令該曹抄出成冊, 米太若干斗, 以還上題給, 待秋收捧, 何如? 答曰, 還穀分給之規, 似難創開, 依頃年例白給, 可也。
肅宗五年己未, 右議政所啓, 今年凶歉, 畿甸尤甚, 賑廳穀物, 元數不多, 各軍門·戶曹所儲, 量宜發賣, 以爲都民救急之地, 而料祿人員·貢物民人, 勿爲許賣, 何如? 上曰, 依爲之。
二十二年丙子二月, 領議政柳尙運所啓, 都城民戶, 三秩抄出, 或給乾糧, 或給還上, 而經用垂竭, 江都米一萬石劃給發賣價錢, 還穀分給時, 以錢代給, 以爲種糧換貿之地, 何如? 上曰, 依此分付, 可也。