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事實
顯宗三年壬寅, 革罷宮家免稅, 惟仁嬪·義昌君·麟坪大君三房折受, 特敎勿罷。
四年癸卯, 因大司諫李敏迪所啓, 宮家免稅, 大君·公主, 限四百結, 王子·翁主, 限二百五十結, 折受無過此限事, 定式。
十五年甲寅, 本曹判書閔維重所啓, 繕工草薍, 專出鴨島, 而今聞宮家折受, 請還給本監, 以補國用, 何如? 上曰, 依爲之。
肅宗元年乙卯, 本曹判書吳始壽所啓, 大君·王子奉祀條, 限百結免稅, 而昭顯世子公家祭奠, 無子孫奉祀之事, 慶安君田畓, 不可免稅矣。上曰, 一百結, 別爲免稅, 以示優恤之意。
三年丁巳, 吏曹判書閔點所啓, 宮家折受書啓, 輒稱某邑某面, 豈可全一面折受乎? 上曰, 今後毋得混稱某邑某面事, 申飭。
同年, 因府啓, 龍洞宮折受智異山下嚴川·馬川, 還給民人, 此後凡係名山大川, 勿許折受, 圖囑宮家, 冒出公文者, 隨現重繩。
六年庚戌, 諫院啓曰, 甲戌量無主陳田, 民人起耕, 有相傳文券, 而宮家通謂之量案無主, 任意折受, 請量後起耕有文券田畓, 還爲出給, 何如? 答曰, 依啓。
十四年戊辰, 領議政南九萬所啓, 祖宗朝, 本無田土折受之事, 宣廟壬辰後, 始有折受之謬規。及至顯廟初年, 五公主出閤, 折受浸廣, 山海民人, 不得聊生, 故三司閱年爭執。其時, 上敎以爲, 事在先朝, 有難盡革, 若不更許折受, 則無源之弊, 自然可絶, 因依大典職田之法, 加其結數, 定爲免稅之限矣。今人民繁殖, 寸土尺地, 皆已起耕, 白奪之外, 決無可得之地矣。上曰, 不思善後之道, 猝然革罷, 則新設宮家, 將未免狼狽, 令廟堂講究。又啓曰, 大典職田之規, 大君二百五十結, 王子一百八十結, 公翁主, 從尉之品, 計給。顯宗朝癸卯, 大君·公主, 四百結, 王子·翁主, 二百五十結, 定限免稅, 今姑以癸卯受敎, 爲限劃給, 則四百結, 當爲四百六七十石, 使宮家依受於戶曹·惠廳, 此外啓下折受私田免稅, 竝皆革罷, 大典職田條本田稅及草價, 竝納京倉, 而以軍資監米豆換給, 則可以防宮田免稅濫雜之弊矣。上曰, 曾已折受外, 竝令勿許, 將來新宮, 以職田法行之, 而漁箭折受及代受等事, 亦爲防禁, 各衙門一體施行。○十二月, 領議政金壽恒所啓, 職田變通事, 問議于諸大臣, 則皆以爲折受已罷, 職田難便, 令該曹給價, 似無弊端。大君·公主則以四千兩, 王子·翁主則以三千兩, 議定矣。上曰, 大君·王子, 職田幾結, 折受免稅, 亦幾結耶? 壽恒曰, 法典職田之數, 大君, 二百二十五結, 王子, 一百八十結, 而先朝定制, 則大君, 四百結, 王子, 二百五十結矣。上曰, 給價買庄, 可準此法, 而亦無不足之患耶? 本曹判書柳尙運曰, 三千兩買得幾結, 雖未可知, 而免稅, 則當以二百五十結爲準矣。上曰, 大君·公主則給五千兩, 王子·翁主則給四千兩, 而以相訟田畓, 賣於宮家者, 各別科罪事, 申明立法, 可也。○四月, 領議政南九萬所啓, 法典, 大君則二百二十五結, 公主則只從駙馬品數, 而顯廟朝, 大君·公主免稅, 以四百結爲限, 卒逝則限四代, 給一百五十結, 俾爲奉祀之資, 而明善·明惠兩公主, 未出閤卒逝, 生時四百結之數, 不宜仍給矣。上曰, 明善·明惠, 早世無后, 故爲其香火, 別爲加給, 今以四百結爲限, 其餘當釐正, 而數外之田, 將何以處之? 九萬曰, 宮家諉以量時無主, 而小民起耕爲已土者, 已過數三十年, 四百結外, 推給本主, 則可以慰悅民心矣。上曰, 依爲之。○禮曹覆啓, 全羅監司李濡狀啓, 乾止山, 卽慶基殿裨補所, 特以禁耕兩字, 印標於本山導行帳, 在地部, 而癸亥, 作爲眞殿籍田及勳府屯田, 許民耕墾, 累百年禁養, 幾至濯濯之境。取考文書, 則壬辰間, 淑安公主房折受時, 故判書徐必遠, 爲判官牒報, 本府地形, 乾亥方甚處, 故名其山爲乾止者, 欲其止於乾也, 名其洞爲猪者, 蓋取亥義也。猪洞近處, 山曰葛山, 川曰糞川, 皆爲畜猪之義。比於京城負兒岳前, 設餠峴之類。猪洞下面築大堰, 而傍穿水, 使注於亥方, 欲令收拾外氣, 彎抱府治, 專爲豐沛舊鄕眞殿所在裨補而設也。嚴禁耕伐事, 覆啓蒙允矣, 到今便作耕墾之地, 眞殿一年六名日祭需價, 以會付米計減者, 未滿百石, 則所爲籍田收稅不足, 以補其萬一, 令該曹稟處。本曹啓目, 依道臣啓聞, 自今年革罷, 着實禁養, 何如? 依允。
二十一年乙亥七月, 左議政柳尙運所啓, 臣取見本曹文書, 則丙寅年淑儀房田畓二百結, 依例劃給。以此觀之, 二百結折受, 似是定式, 而明禮·於義·壽進·龍洞四宮, 姑勿論, 此外諸宮, 或七千餘結, 或五千餘結, 或四百餘結, 定限二百結外, 盡爲革罷, 宜矣。上曰, 劃定二百結, 則宮家必不成樣矣。尙運曰, 若自朝家量給米布·銀貨, 使自備庄土, 則公私兩便矣。四宮及明善·明惠兩宮房, 則以戊辰爲限, 以後折受, 則盡爲革罷, 何如? 上曰, 此外三宮, 亦依所達施行, 可也。○八月, 左議政柳尙運所啓, 三宮折受革罷, 宜自朝家量給其代, 故銀貨則以四千兩爲定, 而米豆則以幾年爲限耶? 上曰, 五年可也。尙運曰, 王子宮, 每年自惠廳輸送米二百石, 軍監輸送太一百石, 而銀則自戶曹輸送, 何如? 上曰, 依爲之。○九月, 持平柳重茂所啓, 戊辰以後折受, 革罷之後, 又以賜與爲名, 仍屬新宮, 名殊而實同, 實非革罷之意矣。上曰, 折受旣罷之後, 移屬他宮者有之, 故如此, 而臺臣之言甚好。折受之移入賜與者, 盡爲出給, 可也。○十一月, 領議政南九萬所啓, 戊辰以後折受, 仍臺臣陳達, 卽賜快從, 其爲聖德之光大矣。第聞宮家代受尙存云, 所謂代受者, 因事見失, 得其代者也, 此非無端新折受之比, 而以小民言之, 則世傳家業之地, 折入宮家折受, 冤悶則一也, 竝爲革罷, 何如? 上曰, 此後, 則勿許。代受事分付, 可也。
二十二年丙子十一月, 全羅監司金萬吉狀啓, 扶安邊山屯田, 上年因巡撫使査啓, 旣已革罷, 而於義宮, 又請復設, 請令該曹稟處。本曹啓目, 雖是復設, 係是戊辰以後, 則當以新折受論, 依成命革罷, 何如? 依允。
二十五年己卯八月, 執義兪命雄等啓曰, 伏聞因淑媛宮望呈, 以延安南大池水不及處七結, 有仍屬該宮之命矣。南大池, 卽通國名勝之池, 而言其利, 則分漑民田千餘石之地, 摘取蓮子, 爲御藥之供, 壽進宮曾所折受, 而査啓還陳, 道臣枚擧, 該曹覆啓堤堰事目, 有此防塞之請, 請還寢其命, 答曰, 依啓。
三十三年丁亥五月, 本曹啓目, 慶尙監司李壄狀啓, 密陽府使李懲夏牒呈, 寧嬪房折受東面初洞二洞, 山腰以上, 進上靑大竹·扇子竹·楮漆所出, 山腰以下, 皆是元結有文券民畓。延齡君房折受龍頭山, 乃邑基之靑龍三門, 而且是進上栗林, 一開水路, 則邑居蕩柝, 勢所必至, 兩宮折受, 一倂還寢事, 令該曹稟處矣。此必有奸細之人符同瞞告者, 摘發重究, 一倂還寢, 何如? 依允。
三十四年戊子二月, 江原監司宋廷奎所啓, 軍屯·宮庄折受革罷事, 本道査啓, 而春川則七面之內失其五面, 狼川則六面之內失其四面, 江陵則嶺西珍富內外面, 火粟·蜂蜜·人蔘, 皆出於此, 而盡屬宮屯, 民不堪命。若以特敎革罷, 則慰悅民情, 有光聖德, 故敢此仰達。上曰, 道內各處折受, 廟堂從當稟處, 而此三邑, 則特先革罷, 可也。
三十五年己丑二月, 備局啓目, 戊辰後折受革罷事, 乙亥年榻前定奪矣。今觀各道狀啓及御史書啓, 則新折受夥然, 其中有買得免稅者, 他宮折受移給新宮者, 而新設宮家鹽盆三坐·柴場一庫, 不當革罷, 其可存可罷者, 一一後錄, 以取睿裁焉。免稅宮屯, 每負收米二升三合, 永作宮屯, 每負收租二斗, 人情雜費·船馬價, 皆入其中事, 曾已定奪, 而差人輩大斗濫捧, 又責人馬支供於屯民, 此後自營門隨現啓聞。漁箭則守令與宮差, 査正定限, 鹽盆則每年十石收捧, 濫捧者, 營門捉囚啓聞。柴場則場內居民限二十戶, 屬之該宮, 其餘應役本官, 而烟戶雜役勿侵, 時起田畓, 盡屬本邑, 宜當。以此定式事, 各軍門各衙門處, 分付何如? 依允。
三十六年庚寅三月, 因江原監司徐宗憲狀啓, 本曹啓目, 洪川縣劉昭儀房折受三十結, 依他宮屯新定例, 田一結捧淸二斗二升事, 定式施行, 何如? 依允。
四十二年丙申八月, 備局啓目, 平安監司閔鎭遠狀啓, 各邑或築筒作畓, 或屬公田畓, 或買得田畓, 屬之大同雇馬庫, 補用雜役, 而折受望呈, 前後相屬, 本道則定式防塞事, 令廟堂稟處矣。蓋關西異於他道, 一切防塞之意, 分付該曹, 何如? 依允。
四十六年庚子十月 景宗御極後。, 全羅監司申思喆狀啓, 長興府平日島·山日島·來德島·得良島眞木里, 折受於於義宮, 依永賜牌免稅例, 田一結捧太六十斗, 畓一結捧米四十斗矣。己卯移屬䄙嬪房之後, 田一結太二百斗, 畓一結米八十斗, 絶島窮氓, 呼冤太甚, 一依於義宮例徵捧, 令該曹稟處。本曹啓目, 乙亥定式, 永作宮屯, 則每負捧租二斗, 民結免稅, 則捧米二升三合, 依定式, 以租支計, 宜以此知委, 何如? 依允。
景宗元年辛丑正月, 內司牒呈, 明禮宮折受載寧堰畓, 酷被水災, 請以實結劃送。本曹啓目, 先朝乙亥折受革罷之時, 於義宮則戊辰以前折受四百餘結, 以後折受四千餘結, 故特命計四分一, 以一千結劃給, 而明禮宮, 則戊辰後折受旣罷之後, 欲援於義宮特敎之例者, 事體未安, 載寧堰畓題給烟軍, 着實修築之地, 何如? 傳曰, 今則此宮, 比前自別, 以實結五百結劃給, 使之成樣。
四年甲辰四月, 備局啓目, 無論山林·川澤, 收稅有弊處, 査出革罷, 則諸宮家·各衙門, 更卽折受。今後則有弊革罷處, 備局置簿一件, 凡折受文書, 呈政院, 送備局, 如內司折受, 送備局, 署經例, 相考置簿冊, 不干於前日革罷處, 亦無民弊, 然後以無頉出署以送, 方許折受, 或有違令折受處, 則當該主管堂上論罪事, 定式何如? 上曰, 依爲之。
十一月英宗御極後。, 本曹啓目, 新設宮家田畓二百結, 元結中依本房望呈, 劃給銀子四千兩, 亦爲劃給, 而宮庄未備前, 本曹太一百石·惠廳米二百石, 限五年輸送事, 曾已定式。敬義君, 今旣封爵, 則依此擧行之意, 敢啓。傳曰, 經用不可不顧, 銀則減二千兩, 米則減百石, 結數事, 後日筵中當下敎矣。
英宗元年乙巳三月, 右議政閔鎭遠所啓, 箭串司僕屯田, 卽各邑諸員耕食之地, 以其餘田, 劃給於諸宮家菜田, 而近來諸宮家, 必以諸員所耕田望呈, 故諸員等失業呼冤。今後則勿以諸員所耕者許給事, 定式施行。且殿下在潛邸時, 劃送彰義宮菜田, 而以移屬翁主房, 又請劃得彰義宮, 旣是空宮, 何以爲之? 上曰, 彰義宮, 別有奉祀, 當給菜田, 而以餘田給之, 可也。
四年戊申九月, 嶺南御史李宗城所啓, 東萊府使閔應洙送一成冊, 卽新生翁主房折受絶影島者, 而四標稱東倭館云云, 每年收稅, 則倭館必無不知之理, 誠不可使聞於隣國矣。上曰, 御史持納成冊, 意有在焉, 四標亦如御史之言矣。宮庄漁場, 屬之戶曹, 捧稅計送, 已自湖南爲始, 而湖南外他邑, 依古定式代定之意分付, 可也。
十年甲寅五月, 藥房都提調宋寅明所啓, 代盡宮房田畓出稅事, 考見前例, 宣廟朝公翁主過四代之處, 已皆出稅矣。上曰, 不遷之位奉祀條, 何以爲之耶? 都提調徐命均曰, 所謂出稅, 只罷免稅而已。然而免稅田畓卜數過多, 罷稅後所出, 不能當賦稅, 故陳廢者必多矣。上曰, 出稅事, 依爲之, 此等處解卜, 宜矣。
十一年乙卯十二月, 備局啓目, 黃海監司兪拓基狀啓, 靑平尉房, 以鳳山銀坡等三場望呈, 而場市折受, 曾所未聞, 令廟堂稟處矣。依狀請防塞, 此後永爲禁令, 何如? 依允。
十三年丁巳閏九月, 持平李昌誼啓曰, 內司之京外移文, 必先署經於吏·戶曹, 而近來間或直牒外藩, 今後則嚴飭, 何如? 答曰, 內司當經由兩曹者, 依舊典申飭。
十五年己未正月, 傳曰, 元子在王子時, 戶曹輸送田畓價, 銀四千兩矣。今已定號之後, 則不當仍留, 還爲出給。
二十年甲子, 本曹判書金□□所啓, 明禮宮實結五百結劃給事, 啓下矣。元免稅一千五百結, 追免稅數千結, 而今又請五百結, 定式外加給, 誠難矣。上曰, 元定外加給, 非定式之意, 置之。
二十七年辛亥, 因幼學朴廷琓上言, 本曹啓目, 光海君房奉祀條, 免稅三百結太過, 二百結還寢, 何如? 上曰, 當初八百結, 乃所以待厚也。與大君·王子有間, 比大君加一百結, 何妨? 置之。
三十年甲戌, 關東田結本少, 而宮房免稅甚多, 蔘價漸縮, 此後關東毋敢更請免稅事, 因傳敎定式。
同年, 月山大君奉祀條, 依撫安·讓寧·孝寧三大君房例, 劃給免稅九結。
三十五年己卯八月, 本曹啓目, 郡主房元結, 頃有一百結劃給之敎, 內司移文, 又有免稅三百結啓下, 而續大典, 郡主房結數, 元無酌定, 何以爲之? 上曰, 依前下敎, 只給一百給〔結〕。
三十六年庚辰正月, 右議政閔百祥所啓, 舊宮免稅之過限者, 何以處之? 本曹判書洪□□曰, 奉祀外延及外裔之外裔, 買賣他人者, 至今仍置, 依己酉以後, 定奪擧行, 何如? 上曰, 依爲之。
三十八年壬午五月, 領議政洪鳳漢所啓, 內司爲世孫宮, 請得司僕晉州屯田, 仍欲免稅, 而以事體言之, 世孫宮豈可與各司爭土地乎? 臣意則姑倣免稅例, 自惠廳·戶曹分排輸送, 而從簡則好矣。上曰, 諸葛亮云, 宮中·府中, 俱爲一體, 大抵設世孫宮, 三百年後初事, 無他句管, 附龍洞宮, 故苟艱莫甚, 有所下敎。今聞欲取於太僕, 一則乘敎, 一則乘時, 其心可駭。當該首宮任, 令有司科治, 目今原結外, 豈有空處? 非南大池, 必也乾支山, 雖有懿昭時前例, 今不可復用。原結代, 戶曹·惠廳, 以三百石, 年年上下, 後勿援例事, 分付。
四十二年丙戌, 本曹判書趙雲逵所啓, 延齡君房折受宮屯, 以餉廳春川屯田相換事, 內司啓下, 而曾於癸丑故奉朝賀金在魯爲戶判時, 以宮房軍門田畓不可相換之意, 筵稟定奪, 何以爲之乎? 上曰, 依故相所奏, 嚴禁可也。
五十二年丙申十一月今上御極後。, 備局甘, 京畿監司鄭光漢牒呈, 水原府使所報, 各宮無土免稅, 收捧上送, 而元納外雜費, 只駄價計減。
今上八年甲辰, 因平安監司李性源狀啓, 本曹草記, 宜嬪房折受四邑量外加耕田畓·火田, 使箕營發遣營裨, 眼同該邑守令, 從實打量, 以判付內有弊無弊論理狀聞之意, 申飭矣。今此道啓, 無他說弊, 宮房折受亦多已例。一依本道打量, 嘉山郡島淤泥生草處八結五十負零, 望毛老畓四十四負零, 境內加耕田二千九百九十日五時半半耕, 畓六十一石六斗落零, 獨草筒月朴島員畓六十五負零, 下蘆坪畓一結九十負零, 田三十七負, 黑鴨員畓一結八十七負零, 永柔縣元堂筒畓七結七十六負零, 博川郡望毛老畓四十二負零, 自今爲始, 移屬本宮, 仍令免稅, 何如? 傳曰, 火稅筒畓, 雖非在於民者, 必是官用之需, 然而屬之宮房, 則奚特官不成樣? 亦當民受其病, 更以此意, 自戶曹, 分付該道, 勿施, 其代, 度支從便代給。
同年, 備局啓曰, 平安道安州折衝吳德采等上言, 明禮宮所管漏盈筒·奉先筒, 本以堤堰, 己酉年自宮作畓矣, 再昨年宮差李辰昌輩, 稱以宮畓泥落, 於越江博川地, 執卜於德采等屢百年世傳之畓, 故呈於營府, 摘奸査實, 則兩筒元無破筒泥落處, 博川古城鎭地, 初無可論, 而白地見奪, 極爲冤抑, 呈于京兆, 宮差輩見落, 而兩年收稅, 不爲出給云云, 分付該道, 詳査狀聞, 何如? 上曰, 嚴査狀聞。
同年三月, 內需司草記, 昭儀房移來平安道博川田畓三十結四十負零, 奸民金九鍊等, 瞞告訓局設屯, 故本司草記, 戶曹査實, 刑曹至於刑己酉, 而其同黨朴昌彦等, 因此擊錚, 又爲査實照律矣。金九鍊等, 今方蒙宥上來, 又呈刑曹云云, 判下內, 朝家每軫民弊, 事係宮房, 無論巨細, 一幷節抑, 而至於此事, 屢經戶曹覆處, 刑曹決己酉, 明知爲奸民作俑, 依前該曹覆啓, 下送該道査處之意, 枚報戶曹, 可也。
十年丙午三月, 備局甘, 獻納李師濂上疏, 宮房折受, 自有其制。啓下戶曹, 然後方可收稅, 而各宮不遵成憲, 不由地部, 勒奪民物, 稱以折受, 民不支堪, 故曾因臺臣建白, 揭板科條於各道監營, 而猶復如前, 稱以某邑不納稅錢, 官吏有因公上京者, 則押去拘囚, 推剝狼藉, 此而不禁, 則徒法而已。另飭各宮, 俾申令甲, 宜矣。答曰, 宮房事, 眞有是也, 烏在其揭板定制之意? 亦令廟堂, 嚴飭內需司, 知委該宮房, 毋敢更犯。
十一年丁未二月, 裕嬪房嘉禮時, 本曹判書李在簡所啓, 新設宮房田土價, 銀二千兩有輸送之例, 宮庄未備前, 本曹太·惠廳米各一百石, 亦限五年輸送矣。庚子年嘉禮時, 因特敎, 竝爲減半, 今番則何以爲之乎? 上曰, 銀子三分一, 米·太各三十石輸送, 可也。
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