事實
仁祖十五年丁丑三月, 本曹啓曰, 水站船, 不但爲田稅輸運, 欲爲江都過涉, 令兩站判官, 領船留待於江都廣城津, 而左道判官, 尙無影形, 先罷後拿, 何如? 依允。
孝宗八年丁酉四月, 本曹啓目, 左水運判官牒呈, 梨浦水夫廉檢忠·可興水夫崔應吉等, 以落漏公賤, 還入推刷。自前水夫不足, 則有寺奴立役之規, 依此例, 竝所生永給本站, 何如? 依允。
肅宗元年乙卯二月, 副提學金錫胄啓請, 依辛亥例, 以右水站船運來江都米一萬六千石, 則可除船價千餘石矣。依允。
二十年甲戌九月, 罷江都御座船, 四隻留江都, 三隻給水站。
三十九年癸巳閏五月, 海西山郡稅米, 擧作錢布後, 因道臣李㙫狀啓, 革罷右水站判官。金川稅穀, 賃船上納。
四十年甲午正月, 京畿左水運判官牒報, 站船穀色米太, 依漕船例, 請計數作石以納, 永爲定式。○四月, 水運判官牒報, 請依軍門例, 退漕船輪回發賣, 本曹題辭, 添錄井間, 依報劃給。
今上四年庚子, 因本曹判書金華鎭疏請, 永罷水運判官, 以忠州牧使定都差員, 所屬六邑, 輪定領運差員。