附嶺界
對馬島
世宗元年, 上王命兵曹判書趙末生書諭都都熊瓦曰, 對馬島隷於慶尙道之鷄林, 本是我國之地, 載在文籍, 第以其地在海中, 阻於往來, 民不居焉。倭奴之黜於其國而無所歸者, 咸來投集, 以爲窟穴, 雖或有草竊之事, 尙念都都熊瓦之父宗貞茂慕義輸誠, 犯而不校, 每接信使, 館焉以留, 仍命禮曹厚加勞慰。又念生理之艱, 許通商舶, 慶尙道米粟, 運于馬島, 歲率數萬餘石。予之用心, 蓋亦勤矣, 不意忘恩背義, 自作禍胎, 爰命邊將領兵船, 進圍其道, 以待降附。若能幡然悔悟, 卷土來降, 則其都都熊瓦錫之好爵, 頒以厚祿, 其代官等, 亦當優恤。其餘群小, 竝齒吾民, 一視同仁, 惟足下思之。