六十六. 檢驗謀避守令論罪[正宗 13年(1789)]
正宗十三年己酉, 因全羅道樂安郡殺獄罪人孫病入老味獄事回啓, 判付內, “樂安囚孫病入老味段, 向來判付時, 非不知元犯之專屬此囚, 而第因其名而想其人, 則或慮夫病痿之漢, 未必作殺獄之擧是遣, 又況渠之前後爰辭, 一直推諉於在逃崔妻者, 亦不無些分就疑之端, 故使之待跟捕究覈以聞. 今焉崔妻之供出, 而韓女被踢時光景, 非特暸如指掌, 就其中牛黃鷄粥之面傳躬饙, 孫家·崔屋之此毁彼賣, 以至隔一舍過三稔之相通聲氣者, 輒歸之在逃等, 各項隱跡, 尤明白呈露矣. 曹啓所爲, 誣援渙如氷釋, 情節轉成鐵案者, 誠得之, 另飭推官, 加刑得情, 毋論虛實眞僞, 或同之妻, 鬨場之在傍看證者此也, 凶身之籍口掉脫者此也. 移在接壤之地, 恒作趁虛之行, 則名以跟捕, 初不致疑, 仍以年久行査之後, 始爲現問者, 揆以獄體, 萬萬稽忽, 該郡守旣往論斷勿論, 不飭之道臣, 竝推考爲旀. 兩屍帳之大小相左, 今不必追究, 而卽以前道臣題辭論之, 檢驗事體, 至爲嚴急, 雖在冬節寒凝之時, 固不容晷刻少緩, 而觀於過去, 守令之在他地方, 亦爲行檢之法可知, 則順天·光陽·寶城三倅之互相頉移, 至使夏月屍體腐爛莫憑者, 誠極痛駭. 該道臣之不卽狀勘, 只治刑吏, 失之太寬, 從重推考. 三邑守令段, 待稅穀畢裝發, 竝以拿問定罪, 擧一可以反三. 自卿曹以此判付, 知委諸道, 若有檢驗時謀避報移者是去等, 毋得掩置, 直以依定式, 拿問重勘之意, 措辭狀聞事, 嚴飭行會, 仍載本曹受敎.”